関東部会
第75回研究例会
日時 2005年6月25日(土)14:00〜17:30
場所 慶應義塾大学 三田キャンパス 北館1階 会議室
(http://www.keio.ac.jp/access.htmlをご参照下さい)
報告1「第一次世界大戦初期におけるA・J・トインビーの国家観」
報告者 春日潤一 会員(創価大学大学院文学研究科研究生)
コメンテーター 山岡龍一 会員(放送大学)
報告2「ヒューム「外的物体論」の道徳哲学的意義」
報告者 矢嶋直規 会員(敬和学園大学人文学部)
コメンテーター 勢力尚雅 会員(日本女子大学非常勤講師)
報告3「人間についての学問から、神の信念がどのように論じられるか――ヒュームの自
然主義的信仰論について」
報告者 小林優子 会員(東京大学大学院人文社会系研究科博士課程、日本学術振興会特
別研究員)
コメンテーター 桂木隆夫 会員(学習院大学法学部)
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報告要旨
報告1
「第一次世界大戦初期におけるA・J・トインビーの国家観」
春日潤一(創価大学大学院文学研究科研究生)
報告者は、日本におけるA・J・トインビー(1889〜1975)の受容史を検証するなかで、トインビーの国家観の理解にある疑問を抱いた。というのは、トインビーが処女作Nationality and the War(1915)において彼の国家観を端的に表明した「国民国家は、もっとも偉大かつ危険な社会的達成である」という命題が、日本では「国民国家は、もっとも偉大な社会的達成である」(山本新)という形で紹介されていたからである。(※傍点は報告者)報告者のこの疑問を裏付けるかのように、今日の日本においてトインビーは、国粋主義的主張の弁護人として登場することが少なくないのである。
そこで本報告では、問題の処女作Nationality and the Warを読み直し、最初期とも言えるトインビーの国家観を、執筆事情、時代的文脈と併せて再検証したい。こうした試みは、これまであまり注目されなかった彼の国家観の骨格に光を当て、彼の主著『歴史の研究』に代表される文明史観の意義を考える上でも、何かしら裨益するところがあろう。
※ 本報告の内容は、2005年1月に提出した修士論文の内容をもとにしている。
報告2
「ヒューム「外的物体論」の道徳哲学的意義」
矢嶋直規(敬和学園大学人文学部)
本報告で私は、ヒュームのTreatise全三巻を一貫した道徳理論と理解し、外的物体論をその要として理解する解釈を提示したい。
ヒュームのTreatiseは、第一巻における知覚の最小単位としての印象および観念から出発し、第三巻において統治組織によって秩序付けられた社会の形成と、そこにおいて可能な徳目の検討によって完結する知覚の展開の理論である。
私は第一巻を、観念連合による一般観念の形成から、因果的信念の形成を経て、外的物体の信念にいたる議論と理解する。外的物体は、因果的信念を安定させるために産出される想像力の虚構とされる。そして外的物体の信念は同一性、独立性、客観性、能動性など道徳哲学にとって重要な概念をともなう。私はこれらが人格概念の自然主義的説明と解されることを論じる。
さらに私は、ヒュームの外的物体論が、統治組織への忠誠論の理論的原型となっていることを指摘し、ヒュームの道徳理論が認識論に基礎付けられていることを明確にしたい。
報告3
「人間についての学問から、神の信念がどのように論じられるか――ヒュームの自然主義的信仰論について」
小林優子(東京大学大学院人文社会系研究科博士課程、日本学術振興会特別研究員)
ヒュームは、『人間本性論』序文において、自然宗教に関する考察も、人間についての学に依存していると述べている。自然宗教においては、我々自身が推論の対象となるがゆえに、人間についての学が進歩すれば、自然宗教という学の改善も期待できるというのである。
ではそのようなヒューム哲学において、神の信念は人間本性からどのように論じられているのだろうか。ヒュームは、『自然宗教に関する対話』や『人間知性研究』で神の信念の合理的根拠を否定する。しかし他方で、多くの文献で、情念や想像力といった人間本性の諸原理から、さまざまな宗教における神的存在の信念発生の経過を事実として説明しているように思われる。本報告では後者の議論に焦点を当て、『宗教の自然史』や「迷信と熱狂について」等の文献を検討し、ヒューム哲学において神の信念が自然主義的にどのように論じられているのかを明らかにしたい。
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関東部会担当
山岡龍一(放送大学 yamaoka@u-air.ac.jp)
柘植尚則(慶應義塾大学 tsuge@flet.keio.ac.jp)