日本イギリス哲学会第32回関西部会例会

日時 : 2005年12月10日(土曜) 午後1時30分から5時
場所 : 京都大学法経総合研究棟201号室
交通アクセスと地図については下記のURLをごらん下さい。
http://www.kyoto-u.ac.jp/access/kmap/map6r_y.htm

報告1 中澤信彦(関西大学)
題目「バークとマルサスにおける階層秩序と経済循環―「存在の連鎖」受容の一断面―」
時間 13:30-15:00(討論を含む)

休憩 15:00-15:30

報告2 伊勢俊彦(立命館大学)
題目「ヒュームの「知覚」の理論の再検討」
時間 15:30-17:00(討論を含む)

例会の後、簡単な懇親会を予定しております。こちらにも奮ってご参加ください。
関西部会担当
伊勢俊彦(立命館大学) tit03611@lt.ritsumei.ac.jp 
小田川大典(岡山大学) CQW12470@nifty.ne.jp



バークとマルサスにおける階層秩序と経済循環
――「存在の連鎖」受容の一断面――
中澤信彦(関西大学)
A・O・ラブジョイは、『存在の大いなる連鎖』(1936)において、ヨーロッパ思想史上、プラトン『国家』『ティマイオス』以来の主要な観念図式として「存在の連鎖」を抽出し、ヨーロッパの自然・社会認識のあり様を特色づけた。「存在の連鎖」とは、神によって個別に創造されたすべての種は、最も高等なもの(天使)から最も下等で原始的なもの(鉱物)にいたるまで、「欠けている環」のない単線的な階層秩序を形成しているとする信念、存在了解、分類学上のシステムのことである。この観念図式は18世紀において空前絶後の普及を達成しており、A・ポープ『人間論』はその観念の最も、典型的な表現となりえている、と評されている。そして、その『人間論』からの引用を、バークとマルサスのデビュー作(『自然社会の擁護』1756、『人口論』1798)はともに末尾近くに含んでいる。本報告では、この興味深い事実を出発点に、バークとマルサスにおける「存在の連鎖」の観念図式の受容の様相を追跡することによって、両者における政治的保守主義と経済的自由主義の結合の構造を明らかにしたい。
バークは、『省察』(1790)において、フランスの革命政府が教会(修道士)を攻撃したために連鎖の一部分に欠損が生じてしまい、全体の秩序が崩壊してしまったことを、強い憤りをもって告発している。旧制度のフランスでは修道士の「怠惰」「無駄な出費」が経済循環の重要な一部分を占めていたのに、革命政府の暴力が修道士を除去したことによって循環が断ち切られてしまい、それが今のフランスの経済的苦境の一因となっている、というのがバークのフランス革命批判の経済学的根拠なのであった。また、『穀物不足に関する思索と詳論』(1795)では、資本と賃労働の関係が支配・従属関係であることを、「存在の連鎖」の観念図式に依拠して認めつつも、それが支配・従属関係であるゆえに「自然の正しい秩序」である、という逆説的な結論を導いている。バークの経済思想は、その徹底したレッセ・フェールの主唱においては自由主義的だが、修道士といった封建勢力をその経済的機能において擁護する保守的側面も有していた。バークは、「存在の連鎖」の観念図式の枠内に留まりながらも、その図式内に資本や勤労や消費といった経済学的語彙を流入させ定位させることによって、経済的自由主義と政治的保守主義とを結合したのである。
バークが先鞭をつけた階層秩序の経済学的擁護論はマルサスによって発展的に継承された。修道士と地主との違いはあるけれども、マルサスはバークと本質的に同じロジック(経済循環の駆動力としての不生産的消費)を採用している。マルサスは、スミスの経済理論・経済的自由主義にできるだけ忠実であろうとしながら、同時に、バーク的なロジックも新たに取り入れて、一つの経済学体系へとまとめあげたのである。富者と貧者という階層区分は、それが自然法則(人口法則)にもとづく以上、完全に消滅させることはできない。その場合、人口法則がもたらす貧困への恐怖は、人間が知識を発達させるための刺激として役立っているのであって、そこに神の叡智をマルサスは見ている。しかし、同時に、マルサスは、社会の最下層の人々を減らし中流階級を増加させるような政策の発見と採用を、神に対する人間の義務だと考えている。この場合、神は階層秩序の漸進的な流動化を望んでいる、ということになる。漸進的な中流階級の肥大化は神の計画の実現なのだ。ここにおいて階層秩序が時間の経過とともに流動化するという思想が明確に打ち出されている。このようなマルサスの階層秩序観は、「存在の連鎖」の観念図式が18世紀から19世紀にかけて被った変容(時間化)の反映であるように思われる。
最後に、より広く経済思想史全体の視野からこの観念図式の問題性と可能性を素描することによって、報告を結びたい。


ヒュームの「知覚」の理論の再検討
伊勢俊彦(立命館大学)
近世の多くの哲学者の認識論において、認識する精神が直接に向かう対象は、「観念」と呼ばれる。そして、われわれの、実在する事実や事物にかんする認識は、直接の対象である観念が、実在に一致し、実在に対して真である場合に、間接的に得られるかのように語られる。言い換えれば、観念は、実在を表象するはたらきをもつものと想定されている。
しかし、観念は、この表象作用をいかにしてもつと考えられるのか。観念のもつ表象作用を、観念がもつなんらかの内在的性質によって説明しようとする議論は、乗り越えがたい困難につき当たる。われわれの認識作用を観念の把握として説明するという、当初の仮定により、実在する事物がもつ性質は、われわれの意識に直接に現われることができない。であるとすれば、観念がもつ性質が事物のそれといかなる関係をもつかは、知られることができず、観念がもつ何らかの性質が、表象という関係を、いかにして実在の事物とのあいだに確立し得るのかは、いかにしても理解できないと思われる。
デイヴィッド・ヒュームは、いわゆる観念の理論ないし観念の道を採用した最後の大哲学者である。しかし、「哲学的体系」や「当代の哲学」に対する批判に見るように、ヒューム自身、観念の理論のもつ多くの困難、なかんずく、観念のもつ表象作用を説明することに伴う上記の困難には、よく気付いていた。それでいてなお、ヒュームはやはり、観念が表象作用をもつことを、当然のこととして認めているように見える。どうしてヒュームはそのような態度をとることができたのか。私の答えは、ヒュームは、観念の表象作用を説明するものは、その内在的性質ではない、あるいはすくなくとも、内在的性質のみではないと考えていた、というものである。
ヒュームの観念の理論を、他の論者のものと区別する大きな特徴は、観念と印象との区別にある。観念は、印象の写しであり、強さと生気が劣るという以外の点では、印象と異なった性質をもたない。そして、この両者のうち、表象作用は観念についてのみ認められ、印象は表象作用をもたない。とすれば、観念は、印象と異なった内在的性質をもたないのだから、観念の表象作用は、その内在的性質のみに由来するのではあり得ない。観念がもつ表象のはたらきは、その内在的性質ではなく、他の知覚とともに、あるしかたで組織化されることに存するのである。
私は、観念の表象作用を説明するこの組織化のあり方について、二つの主張を行なう。一つは、この組織化が、時間軸に沿ったものであり、歴史(履歴ないし経歴)をもつ持続的な対象の構成へ向かうということである。このことは、情念の対象や原因が、持続をもつ人格や、それがもつ単に一時的でない性質の観念であることと関係づけて論じられる。もう一つの主張は、このようにして組織化された観念が、それを構成する個々の知覚を包括し、それら個々の知覚をつうじて同一の対象が表象される機構は、抽象観念が、個別的な対象を代表し、個別的な対象に適用可能となる機構と類比的だということである。抽象観念についてのみならず、持続する個別的な対象の観念においても、観念の表象作用における言語の役割は重要である。ただし、ヒュームが動物の理性や間接情念について論じたとおり、言語をもたない動物においても、表象作用の萌芽は見られる。このことは、表象作用の源泉が、動物の行動の成功にとっても重要な、外貨の変化を予測し、先取りすることにあると想定することによって理解できる。因果推理は、ヒュームの言うとおり、確かに過去の経験にもとづくが、推理すること自身は、未だここにないものを表象することに他ならないのである。言語の働きは、未だここにないものの表象作用が到達する射程を、飛躍的に伸ばすことにある。